花彩便りVol.17 中富良野の開拓を支えたドサンコ~今も豊穣の地を見守る馬頭観音~

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 北海道を代表するイベント、風物詩として親しまれている挽曳(ばんえい)競馬。一時は存続が危ぶまれていましたが、帯広市で存続することがきまりホッとしている人も多いのではないでしょうか。農業の機械化が進む以前には、昭和30年代まで中富良野の至る所で祭典や催しの度に、飼い主による挽馬(ばんば)競争が行われていました。それほど、馬とのきづなは深かったのです。
馬頭観音碑
日進区会の馬頭観音碑

開拓時代の馬

 開拓の当初、明治30年代からすでに、「ドサンコ」という道産馬が中富良野に移入されてました。体型は小柄でしたが、ドサンコは粗食に耐え、耐久力が強く、病気にも強くて、開拓時代に適した馬でした。開拓時代に村内に正規な獣医師がいなかったため、民間の獣医が治療にあたっていたと言います。その中の一人、天沼次郎右エ門翁はアイヌの老人から馬の治療法を学び、馬の治療にかけては右に出る者の無い名人だったと言われています。翁には、謝礼として酒一升を飲ませればよかったそうで、馬鈴薯の一斗を積んでやると、次に来るときには干魚を持ってきたということです。日が暮れて泊まることがあっても、用意された寝床には寝ず、土間にむしろをかぶって寝たとのこと。小欲、謙虚、実直の士であったと伝えられています。

馬頭観音(ばとうかんのん)と共に

 ドサンコは貴重な労働力であったと同時に家族の一員でした。朝夕に畦草を刈り、バケツで水を飲ませるのは子どもたちの仕事でした。病気や事故で馬が死亡すると、寺院に墓標を書いてくれと依頼があったと言います。死んだ馬は多くが河川等の農耕地外に埋められました。最近でも、河川や道路工事の際に馬の頭蓋骨が出て来ることがあります。
 中富良野町内には至るところに馬頭観音の碑が建てられており、馬頭観音の由来は、馬が草を食べるように、人間の煩悩を速やかに消滅させるという信仰によるものだと言われています。実は、馬頭観音は馬の守り仏ではなく、馬こそが人間を救う観音であるとするものです。
 春秋に行われる地域の祭典では、必ず馬頭観音にお参りし、豊作と農耕の無事を祈ってなおらいをします。その習慣は今に続いています。これは、農業とドサンコの関係を物語っています。農業を支えた農耕馬・ドサンコに対する感謝と冥福を祈る気持ち、家族の幸福、人間の来世を祈る様々な思いが馬頭観音の碑にこめられているのではないでしょうか。
 今では、すっかり機械化された富良野盆地の農耕風景ですが、今も多くの先人とドサンコたちの温かいまなざしが見守っていることでしょう。

※資料提供/中富良野村史

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