花彩便りVol.11 いま、話題の町村合併!なかふらの生い立ちは?

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~昔は、ひとつの富良野村だった~
 行政や地理的な区分を超えて、すっかり定着した『ふらの』というネーミング。住んでいなければ、市町村の境界を意識しないのはもっともなことですが、富良野地方は5つの市町村からなり、富良野盆地には、富良野市、上富良野町、中富良野町があります。そして、この3つの市町は、大正時代のはじめまでひとつの富良野村でした。

分村の真偽とトラウマ

 富良野村は上富良野村と下富良野村に分かれたあと、上富良野村は大正6年(1917年)に中富良野村を分村します。中富良野村史(昭和29年刊)には、村会議員の回想として、「当時村民に分村という考え方はなかった、広大な富良野盆地、さらに駅が2つあることから、上川支庁が分村を勧めてきた」との記事があります。
 また、中富良野町史(昭和61年刊)には、中富良野の中央部は湿地帯で、土地改良に多大な出費が予想されることから、上富良野が中富良野を切り捨てて、分村に至ったとの記事があります。それは、「中富良野というところは上富良野から悪いところばかりもらって分村したんだから、子孫のためにがんばろうと努力したんだね・・・」(回顧なかふらの・古老の回想)というように、分村の結果が地元の人にとっては母村(上富良野村)から見捨てられたかのようなトラウマ(傷心)となって、記憶に残っていったのだと思われます。

分村の真相は? -上富良野100年史から-

 一方、上富良野側からは、上富良野100年史(平成10年刊)に、新説が紹介されています。分村に先立つ明治45年(1912年)に中富良野側から上川支庁に対して、役場・駅の位置的不便さから『分村請願書』が提出されていることをあげ、「分村は中富良野側から要望したもの」であるとしています。これも、中富良野側の心情への配慮と同時に、上富良野側にも分村に対する負い目があってのことと思われます。さまざまな要因が考えられますが、真相はすでに闇の中です。
 いま、富良野盆地を北星山から見渡すと、先人の拓いた盆地の中央部は豊かな農地となっています。しかし、ここに至るまではさまざまドラマがあったことでしょう。

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