花彩便りVol.13 なかふらの、コメのはじめはクリーン米

ここから本文です。

~緑の田園風景は十勝岳の伏流水から~
 富良野盆地の景観の特色は、十勝岳の山並みの美しさもさることながら、裾野の山林と畑のパッチワーク、そして中央に広がる水田風景です。北海道の大自然とヨーロッパ風な森林や畑、そして日本的な稲作風景の三位一体となって、富良野盆地ならではの景観を形づくっています。

なんでもありだった北海道農業

 明治初期、北海道開拓の基本方針は、ケプロンやダンに代表されるお雇い外国人の主導による大農園式農業でした。その後も、開拓使の官吏(かんり)になったのは、クラーク博士を師とする札幌農学校の出身者であり、彼らも本州では不可能だった西洋式農業を夢見ていました。
 欧米のありとあらゆるものが試みられました。豆、ビート、牧草、麦、じゃがいもといった畑作物はもとより、馬や肉牛の畜産、酪農による牛乳やバター、さらに花き類や果樹まで。しかしひとつだけ取り組まれなかったものがあります。それがコメづくりです。

なかふらの、コメづくり事始め

 開拓使は、当初稲作には否定的で、屯田兵の自給米栽培も禁止していました。しかし明治25年には稲作禁止方針が廃止され、その後全道で移住者によりコメづくりが試みられるようになりました。本州で稲作経験があった彼らは、厳しい自然条件下、幾多の辛苦を重ねて移住地でコメづくりに挑戦したのです。
 中富良野では、明治31年に纓坂源三郎(えいさか げんざぶろう)が富良野盆地東端のベベルイ川付近に入植し、赤毛種と言われるコメづくりに成功しました。これが富良野盆地のコメづくりの事始めとされています。赤毛種はその名のとおり穂先が赤いため、黄金色ならぬ赤い穂並みが十勝岳を背景に風になびく様は、さぞ情熱的、官能的だったでしょう。
 纓坂源三郎が赤毛種を栽培した土地は、十勝岳の伏流水を水源とするベベルイ川や冷水川が流れ、そのクリーンな水を利用してコメをつくっていたと考えられます。いま中富良野町は「クリーン農業」を進めていますが、富良野盆地の自然と先人の努力に支えられてこそといえるのではないでしょうか。

※参考資料
中富良野町史(昭和61年刊)、異國北海道 北方書院(昭和23年刊)
北海道「水田発祥の地」記念碑 佐々木多喜雄・著 北海道出版企画センター(平成14年刊)

本文ここまで

ここからフッターメニュー

ページの先頭へ戻る