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花彩便りVol.18 鹿討農場の由来(鹿討豊太郎のその後)~文豪島崎藤村との不思議な縁~

 中富良野の地名が開拓期の農場名に由来することは広く知られています。たとえば、伊藤農場、田中農場、福原農場などにその名を止めています。中でも、鹿討農場の地主であった鹿討豊太郎(ししうち とよたろう)は、文豪島崎藤村との不思議な縁(えにし)によって、日本文学史にその名を止めることになりました。

◆島崎藤村・初恋の人
 鹿討豊太郎は、札幌農学校(北海道大学の前身)の出身で、中富良野村史ではこう紹介されています。「札幌農学校に学んだという事よりも、ここ(鹿討農場)の払い下げを受けた事が、其の一生の運のつかみ所であった訳である。」
 「一生の運」とは、農場の払い下げを受けたことを言うのでしょうが、彼はもう一つ別の運命を負っていたのでした。
 明治25年(1892)、島崎藤村は東京の明治女学校の教師に赴任、生徒の佐藤輔子(さとう すけこ)に出会い、恋に落ちます。藤村は20歳、輔子は21歳でこのときすでに婚約者がいました。藤村は、許されぬ恋に身も心も憔悴し、4ケ月で学校を止め、放浪の旅に出ます。この失恋が機会となり、藤村の詩想は文学史上に輝く若菜集(わかなしゅう)に結実することになるのです。

 初恋

 まだあげ初
(そ)めし前髪の
 林檎
(りんご)のもとに見えしとき
 前にさしたる花櫛
(はなくし)
 花ある君と思いけり


 ここに歌われた花ある君こそが、佐藤輔子であり、そして、彼女の婚約者が、親戚筋であった鹿討豊太郎その人であったのです。

◆鹿討豊太郎・一生の運
 佐藤輔子は女学校を卒業すると、明治28年(1895)、札幌農学校の講師であった婚約者・鹿討豊太郎と結婚し、札幌に居をかまえます。しかし、輔子はわずか3ケ月でつわりのため衰弱し病死してしまいます。
 鹿討農場の払い下げは明治30年(1897)であり、新妻を失ってわずか2年後のことでした。鹿討豊太郎は、その後、堅実な官吏人生を送ったことでしょう。そして、一生の運をつかんだのかは、彼自身しか知るすべがありません。

※資料提供/中富良野村史
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